Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2003.07.20

御言葉の学びシリーズ

聖と霊性の意味

今日、特に聖霊派ではイエスのパースンと御霊が切り離されており、いわゆる「聖霊様現象」の追求が行われていますが、これはきわめて危険です。キリストと御霊はパースンとしてはもちろん区別されますが、私たちとのかかわりにおいてはひとつです。聖とは仙人的生活をすることではなく、人間生活をすることです。霊的とは、これも霊能力や超能力をもつことではなく、真人間となることです。そのために神はイエスとして人間となって下さったのです。肉において現れた神−キリストこそ神の奥義であり、いまや私たちのうちにおられ、私たちのうちに形作られつつある方です。イエスはもちろん完全なる神でしたが、完全なる人であり、人としてサタンに勝利し、人として死んで葬られ、また肉体を持って復活された方です。このイエスにおいて、アダムにあって損なわれた人間性はすでに回復され、さらに栄光化されているのです。永遠のいのちなるイエスを証するものが三つあります。血と水と御霊です。そしてこの証はひとつです。血はイエスの人間性です。水はいのちです。御霊は私たちのうちにおいて真理を実体化します。こうしてイエスの人間性が私たちのうちに証しされ、その人間性に与るのです。神が人となる、これこそ奥義であり、その奥義を窮めることは、私たちがイエスの人間性を楽しむことです。イエスは羊がいのちを得、しかも豊かに得るために来て下さったのです。”超聖化”されることや、”超霊的”になることは一見素晴らしく見えますが、実は巧妙な誘惑であり罠です。聖化されることや霊的になることとは人間性の回復に他なりません。主はつまらないことの連続である人間生活に関わる、否、人間生活を楽しませて下さるのです。私たちは普通のおじさん・おばさんとして、真に人間となりましょう!

聖書個所 ヨハネ1:14、19:34、1ヨハネ1:1、5:6-12、1テモテ3:16

1.イエスのアイデンティティ

@ナザレのイエスは神の子であり、人の子であった(マタイ8:20、11:19、16:13など)-神性と人性をもつひとりのパースン(ヒュポスタティク・ユニオン、二性一人格)

Aイエスは完全なる神であり、完全なる人であった→イエスは疲れた(ヨハネ4:6)、泣いた(ルカ19:41)、あらゆる点で私たちと同じ試みを受けた(ヘブル2:18、4:15)

Bイエスは神であったがあえてそこを離れ、僕の姿を取った(ピリピ2:6-8)→受肉の奥義


2.聖と霊性

@聖(Holiness)とは神への分離と健やかさ(Wholeness)→体・魂・霊の統合体としてひとつであるとき、イエスにあって回復され栄光化された人間性を享受すること

A「霊的である」とは「人であること」→イエスはもっとも霊的であったが、人の立場にとどまり、石をパンに変えることも、神殿から飛び降りることも、この世の栄華を求めることもあえてしなかった

Bイエスは人として死に、葬られた→ヨハネは仮現論に対して、イエスの肉体を証した

Cイエスが永遠のいのちであることは血と水と御霊によって証される

Dイエスにあって神は傷ついた人間性を回復し、栄光化して下さった(ローマ8:30)

E聖霊派では「超霊的」になることが追求されており、「ヘンテコステ現象」が霊性の証明とされるが、これは誤り!

F神の奥義とは内にいますキリスト、栄光の望み→肉において現れた神

G多くのクルシチャンは理想論を勝手に思い描いてもがいている→今このときの自分を受け入れ、自分としっくりとひとつになること


3.結 論

@神は、アダムにあって損なわれた人間性を、イエスにあって回復し、栄光化して下さった

A「聖化される」とは人間性疎外ではなくもっとも人間となること→人間生活を楽しむこと

B「霊的である」とは、イエスにおいて証された人間性が、私たちにおいても証しされること→霊能力者や超能力者になることではない!

C神の奥義なるキリストのいのちを楽しむこと

WWJDではなく、Let Jesus DO!(LJDO)



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