Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2003.07.13

御言葉の学びシリーズ

信仰vsキリスト

パウロの言葉とヤコブの言葉は見かけ上矛盾します。一方は「行いによらず信仰によって」、他方は「信仰だけではなく行いにもよる」とあります。しかしこの矛盾する主張は平面が異なっています。パウロの行いとは旧約の罪に定める律法の行いであり、ヤコブの行いは完全な律法、自由とする律法の行いです。自由の律法とは、影であった旧約の律法の実体であるキリストです。主に向く時にベールは取り除かれ、主の御霊のあるところには自由があります。主は安息日の実体であり、いろいろな規定や日の実体でした。またもろもろの捧げ物の実体でもありました。律法は心を尽くし、思いを尽くして神を愛することと、隣人を愛することによってまとめらます。よってキリストの愛のうちにとどまることは、律法の成就であり、キリストの愛に束縛されればされるほど、他のあらゆるものから私たちは自由となります。多くのクルシチャンは自分の顔を鏡に映しているだけです。すでに十字架で終わった古き人の亡霊を見つめて葛藤しています。私たちが映すのは主の栄光です。イエス御自身を見つめることです。かくして私たちは自分が信じたとおりを行います。青信号になれば渡り、赤信号では立ち止まる。これは信号の効果を信じているからです。信仰とは意志決定です。意志決定には行為が続きます。こうして私たちは信じたことを口が語り、また行い、その実を刈り取るのです。不信仰による行いは死をもたらしますが、信仰による行いは祝福を刈り取ります。<聞く、信じる、語る(行う)>のサイクルを繰り返す時、いのちの実体であるキリストをエンジョイし、ますます豊か者とされます。

聖書個所 ヤコブ1:21-25



1.ジグソーパズル

@聖書は神がそれぞれに与えた啓示の集合体として全体像が見える
A表面的な矛盾に欺かれないこと
B律法はユダヤ人に特異的に与えられた(詩篇147:19-20)、異邦人は良心によって裁かれる(ローマ2:14,15)


2.信仰vs行い

@パウロの主張とヤコブの主張−「信仰のみ」or「信仰+行い」?
Aイエスの言葉:「聞いて行う者は岩の上に家を建てる」(マタイ7:24,26)
Bヨハネの言葉:「義を行う者は神から生まれた者」(1ヨハネ2:29、3:7,18)
Cヤコブはきわめて律法的であったから、神はそれに応じた啓示を与えた、が、彼の言う律法は「自由の律法」のこと
 ・みことばを素直に受け入れなさい
 ・みことばを実行しなさい
 ・実行しない人は自分の顔を鏡で見る者
 ・完全な律法、自由な律法を見つめる→行いによって祝福される
D自由の律法とはイエス・キリスト(2コリント3:16,17)
Eイエスは律法の実体(コロサイ2:17、ヘブル10:1)
Fイエスは安息日の実体(マタイ12:6-8)
G「律法を守る」とは安息日の主イエスの愛のうちにとどまること(ヨハネ15:9,10、1ヨハネ3:11、5:3)
H人の行為は信仰の表現−人は信じたことを自然と行う


3. 結 論

@律法の行いは人を救わない、律法はいのちを与えないから
A安息日は人のためであり(マルコ2:27)、律法はキリストへ導く養育係(ガラテヤ3:21)
Bイエスはいのちを与えるために現れた(ヨハネ10:10、1ヨハネ1:2)
C私たちは信じたことを口が語り、その口の実を楽しむ
Dそれぞれが達し得たところによって(=いのちの成長の度合いに応じて)歩めばよい(ピリピ3:16)




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