「私の助け」

日清食品ホールディングス鰹勤監査役
金森一雄

(これは2002年8月25日の久喜福音自由教会主日礼拝でのメッセージです)

 「私は、山に向かって目を上げる。
 私の助けは、どこから来るのだろうか。
 私の助けは、天地を造られた主から来る。
 主はあなたの足をよろけさせず、
 あなたを守る方は、まどろむこともない。
 見よ。イスラエルを守る方は、
 まどろむこともなく、眠ることもない。
 主は、あなたを守る方。
 主は、あなたの右の手をおおう陰。
 昼も、日が、あなたを打つことがなく、
 夜も、月が、あなたを打つことはない.
 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
 あなたのいのちを守られる。
 主は、あなたを、行くにも帰るにも、
 今よりとこしえまでも守られる。」
 (詩篇121・1〜8)


1.はじめに

新約聖書の「使徒の働き」第4章に書かれている初代教会の信徒の中心的な祈りは、「神よ、私たちを遣わしてみことばを語らせてください。私たちとともにいて、あなたのみことばの正しさを超自然的な方法で証明してください。」というものでした。すなわち、「人のわざ」そのものが、人の心を変えるのではない。人を通して語られた「神のことば」こそが、超自然的な神さまの働きが加わることによって、人の心を捉えて人を変えるのです。

また、法律家から伝道者に転身したチャールズ・フィニーは、「私が説教している間、会衆が私の顔を見ている限り、私の説教は失敗だったと分かる。人々が自分の罪に心底気づいて頭をたれるとき、神さまが私の傍らで働いておられ、人々の心を造り替えておられるのが分かる。」と語っています。私は凡人ですから、私の話に皆さんが私の顔を見てくだされば嬉しいのですが、それでもこれからの私の証しに聖霊なる神さまの働きが加わってくださるよう、ごいっしょにお祈りしてください。

さて、日韓共同でワールドカップが開催された記念すべき2002年は、私の職場では社会人生活を始めて30年であり、入社したときの富士銀行からみずほコーポレート銀行に移行した記念すべき年となりました。「みずほ」とは、「みずみずしい稲の穂」という意味であり、「みずほの国」と言えば、日本をほめたたえた言葉です。ですから、日本一の<富士>から「みずほ」となって、「世界一の銀行で働くことができる自分は、なんとラッキーなのだろう。」と喜んでいました。また、我が家では、長女の雅葉が明の星女子高等学校の推薦で立教大学法学部政治学科に進学しました。ですから、今年度の我が家の状況は、皆さんの目には、何の問題もなく祝福されているように映ることと思われます。

ところが、実際にはそんな甘いことばかりではないのです。皆さまご存知の通り、みずほグループは、4月1日より大きなシステムトラブルを引き起こして、多くの方々にご迷惑をおかけしました。また、娘の雅葉の方は、「親が喜んでくれるような大学選びをしてしまった自分は偽善者だ。」「本物の自分探しをしたい。自分自身を見失っている。」などと言って、自宅に引きこもり無気力状態の日々を過ごすようになりました。

この間、日曜日の礼拝や水曜日の祈祷会などで、皆さんに「テレビで見ました。みずほ銀行は大変そうですね。今日は教会にいても、大丈夫ですか。」とか、「お嬢さんは前途漸うで楽しみですね。教会には来られないのですか。」といった声をかけられると、どうお答えすべきかまことにつらい日々が続きました。皆さんもご経験があると思いますが、自分の置かれた状況をありのまま周囲の人に語れないときほど苦しいことはありませんね。「とき」が、解決してくれることを神さまに祈るのみです。

今日は、職場でのお話と19歳という難しい年頃の娘を託された父親としてどのように家庭で対応しているのか、について率直にお証ししたいと思います。53歳の壮年が、厳しい職場と家庭の環境の中で、自分の至らなさを実際に神さまからどのようなバックアップをいただいて、日々、過ごしているのかについて、お話させていただきます。


2.1円の大切さ

先ずは職場のことからお話しましょう。

私が30年間勤務した富士銀行は、21世紀の生き残りをかけて、2002年4月1日以降、旧富士銀行とDKBと日本興業銀行は三つの銀行を統合し、同時に、大企業を主たるお客様とする「みずほコーポレート銀行」とそれ以外のすべてのお客様の取引をいただく「みずほ銀行」の二つに分割することになりました。その際、三つの銀行が持っていた銀行業務の根幹を支えるコンピュータシステムをどのように統合していくかが大きな問題でした。詳しくは、マスコミ等で報じられている通りです。

今回のみずほの失敗は、21世紀への生き残りをかけた企業統合を行う際に、「コンピュータ問題に安易に対応することは、厳に慎まなければならない。」という大きな警鐘を鳴らしたようです。コンピュータの2000年問題として大騒ぎをしたことを思い出します。確かに現代社会はコンピュータ抜きに物事を語れません。コンピュータ障害とは、言語の混乱です。創世記11章の「バベル(混乱)の塔」の記述を思い起こしませんか。この当時の人々は、テクノロジーの進化によって、石に代えてレンガを作り、天に届く塔を建てて「名をあげよう」としました。これに対し主は、「一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」(創世記11・6、7)と仰せになったとあります。

「みずほ」は、総資産世界一の銀行になるのだと言って、まるで「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。」(創世記11・4)とした当時の人々と同様、奢り高ぶっていたのかも知れません。日本の金融システム安定化・金融秩序維持のために、「みずほ」が新しい時代のニーズに対応してスタートする予定でしたが、なぜその計画スタート時につまずいたのでしょうか。私は、今回のコンピュータの混乱を、バベルの塔の事件と同様のものと捉え、あらゆる場面で真摯で丁寧な意思疎通に心がけようと思いました。

また、このときに新約聖書の第二コリント人への手紙12章7、10節が思い出され、励まされました。

「そのために思い上がらないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。」(Uコリント12・7)

「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Uコリント12・10)

4月1日以降、私の仕事の大半は、今回のシステムトラブル発生でご迷惑をおかけしたことでお客様に謝罪することでした。何百万人、何十万人というお客様の口座振替が滞っている状況になりました。手作業で修復するにはボリュームがありすぎて、まさに「行き詰まり」の状態です。

「みずほ」に与えられた「とげ」は、コンピュータ障害でした。私は、キリスト者として神に祈りました。「今回の混乱(=バベル)の収拾策は、どうすればよいのでしょう?」「この混乱の中で、どのようにして主の助けをいただいたらよいのでしょうか?」と。

こうしていたときのことです。福岡に本社のある某ラーメンチェーン店の4月1日の売上金の入金が、入金予定日から三日遅れてしまった。という報告がありました。銀行側のミスで発生したもので、「入金遅延損害金1円を支払い、部長名の謝罪文を出す。」というものでした。担当者に詳細な事情を聞いてみると、「すべては銀行の事務ミスが原因。事実関係の調査と今回の決着案を見出すのに3週間もかかった。解決のためのコスト負担は、入金遅延損害金として1円で済む。部長名での謝罪文は先方がどうしても譲らないので出さざるを得ない。」というものでした。

そのほかにも大きな混乱が多数発生していましたから、「一つ一つを一刻も早く解決するに越したことがない。」「問題解決のための損害金支払もいたしかたない。」といった状況にあり、その担当者の説明通りに私がサインすればそれでいいといった職場の雰囲気でした。しかし、そのときの私には、この1円を請求されていることがすごく大切なものに思えました。

この報告を受けた日は、4月26日の金曜日で、ゴールデン・ウィークが始まろうとしていました。「この問題は明日以降に伸ばしてはいけない。お客様は休日も働いているラーメン店だ。」と何かが私に語りかけてくれました。「ゴールデンウィークが始まろうとする直前の金曜日だから、満席かもしれない。」「帰りの航空券が取れないかもしれない。」と周囲の者が心配しましたが、私はすぐに飛行機の切符を手配しました。

運良く、行きの飛行機は午後二時の便が一席確保できました。飛び乗るようにして飛行機の席に着くと、「このラーメンチェーン店の社長ってどんな人だろう?」「1円の損害金を求めてくる人に何から話を切り出そうか?」といった不安がよぎってきました。神さまに平安をくださいとお祈りしてから、その日の朝、出掛けに妻の涼子から「読んでみて」と言われて渡されていた、相田みつをさんの本を飛行機の中で開きました。その中の「つまずいたっていいじゃないか。人間だもの。」ということばに励まされました。相田みつをさんの本を一気に読み終え、飛行機は福岡空港に到着しました。

福岡支店の担当者とともにお取引先に駆けつけ、不安と重苦しい気持ちのなかで、社長室に案内されました。初めてお目にかかる相手なのに、先ずこちらが謝罪しなければならない立場にあると、大変心苦しいものです。ところが、その社長室に入ってびっくりしました。その室の壁じゅうに、今、飛行機の中で読んできたばかりの相田みつをさんのことばが、額に入れられて飾られていたのです。

その会社の社長さんは、相田みつをさんの大ファンでした。こうした状況の中で、謝罪に行った私が、どのように話し始めたかは、容易にご想像いただけると思います。その取引先の社長さんは、登校拒否の子どもたちをいつも励ましながら、一人一人が高価で尊い存在で、自分なりに社会で働かせていただくことに大きな意味があると訴え、若者たちに働く場所を提供し活気あるラーメン店を経営している方でした。

「若い社員が、汗水流して働いて得た売上金が、みずほ銀行の事務ミスで行方不明になってしまったら皆に申し訳ない。経営者として、今回のトラブルで銀行側に請求できるものがあるなら、例え1円でもないがしろにはできない。」というお考えでした。また、「大銀行の、ことなかれ主義や、小さなことを大切にしない雰囲気が大嫌いだ。今回のことで、みずほ銀行との取引は止めるつもりだった。」というお話も伺いました。

そのお客さまとの話を終えて、羽田行きの最終便の席を確保できました。そして、埼玉の自宅にまでたどり着いたのは、夜の12時前でした。私の心の中は平安で満たされていました。ありきたりの損得勘定で行動したわけではありませんが、結果として、みずほ銀行としても目には見えない大きなものを失うことを防いだばかりではなく、きっと別の何かを掴んだという確信を得ることができました。

このトラブル解決のために、この世の経済感覚だけで考えれば、1円の損害金を支払って済めばよかったとも言えます。福岡まで出かけることなく、東京で謝罪文にサインして終わらせることもできました。しかし、バベルの解決策を神様に祈り求めていた私は、5万円を超える交通費と約半日の時間と体力をかける道を選択しました。出かけるときには、経済性に乗らない私の行動が、周囲の者や上司には理解してもらえるかどうか分からないまま、飛行機に飛び乗りました。万一、周囲から私の行動を認めてもらえなかったら、その日は休暇扱いにしても良いし、旅費も自腹で払えば良いと思っていました。とにかく福岡に行こうと決めていました。

この話の背景には、もっと入り組んだ事情があります。この相田みつをさんの本が、何故我が家にあったかということからお話しましょう。数年前から、近所のKさんと妻の涼子とのお付き合いが始まっていました。日ごろから妻の涼子が、クリスチャン新聞や伝道書籍をよくお渡ししていました。

今回の相田みつをさんの本は、反対にこのKさんから私どもに対してプレゼントされた推薦図書でした。その本を通痛?電車の中で読むようにと、その日の朝、妻の涼子が私に渡したのですが、偶然、福岡行きの飛行機の中で読むことになったのです。そして、今回の出来事の円満な解決に向けた私にとっての不思議な助けになったのです。

今日お話した私の職場での1円の事件は、自分の力ではどうしようもない状況に置かれたとき、自分の思いではなく祈りの中で示されたことを実践している私の証しです。この世の評価やこの世の判断基準を気にしない私の歩みが、どのように周囲から評価されるかは分かりませんが、心は平安です。

 「心を尽くして主に拠り頼め。
 自分の悟りにたよるな。
 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。
 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3・5、6)

このみことばに従って、ビジネスマンキリスト者として日々の仕事に悪戦苦闘しているのです。


3.男親と娘の葛藤

さて、次に我が家の一人娘の雅葉を取り巻く我が家のエピソードをご紹介させていただきます。

娘の雅葉の大学進学が決まるまでは、子育てにはほとんど手を焼いたことがない子どもでした。唯一手を焼いたことで思い出すことは、高校二年の春、雅葉と妻の涼子が結託して私に次のような申し入れをしてきました。「大学受験のために塾に行かせてほしい。東大にチャレンジしたい。皆が塾に通っている。」というものです。

私は、自分自身の経験から、「受験地獄の中に子どもを陥りさせたくない。その子どもが精一杯、学校生活をエンジョイすれば、その後の進むべき道は神様が備えてくださる。」と確信しており、常日頃からそのように家庭で話をしていましたので、この妻と雅葉の結託には参りました。雅葉は、「献金は惜しまずにしているのに、私のためにはお金を惜しむのね。」と言うし、妻は、「子どもがより高いハードルに向かおうとしているのに、どうしてチャレンジさせてあげられないの。」と責めてきます。

私は、「神さまはそのようには望んでおられない。塾へ行けば、塾の論理の中で一点一点が気になり、子どもたちが苦しめられる。」と答えますが、民主主義の多数決というキリスト者が厳に慎まなければならないトリックに引っかかりました。「お父さんは反対だけど、お母さんと相談して決めなさい。」と言って、塾への申し込みを雅葉に委ねました。

雅葉は、予備校入学の申し込みをして、沢山の参考書をもらってきました。私は、「そんなことをやっても何にも役に立たないよ。その中から、例え1問試験に出たとしてもどうなることはないよ。もっと大切なものを失うよ。」と犬の遠吠えのように言うのみ、あとは主の祝福を祈りました。

その晩、一晩中雅葉は新しい塾の参考書と格闘したようです。翌朝、「お父さん、全然分からなかった。高校二年から受験勉強を始めると言うのでは、もう遅いのかもしれない。」と言うのです。「塾が、お前に分かるような参考書を渡さないよ。それでは塾に誰も来なくて塾の経営が成り立たない。イエス様は平安を与えてくださるけれど、塾は恐怖心を与えるのが仕事なのだから。」と、思いがけず出た私のことばが雅葉の心に響いたようでした。

雅葉は、「実は昨晩一晩眠らずに考えたの。塾の申し込みにはクーリングオフ制度というのがあるらしい。パンフレットに書いてあるけれど、どういう意味かわからないので教えて。」と答えてきました。

そしてどうなったと思いますか。ハレルヤ!「主はすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8・28)のです。

クーリングオフ制度をしっかり理解した母と娘は、二人で塾の入学申込書を取り消し、塾の参考書はすべて返してきました。私はこの間、運転手役に徹し、車の中で待っていました。結局、学校推薦で大学に進学しましたので、団塊の世代の一人として、競争社会を生き抜いてきた父親の私としては、神様からお預かりした子どもを受験地獄の中に向かわせることなく大学に進学させたのですから大満足でした。

しかし、こうした高慢さを主はお喜びになりません。ここに落とし穴がありました。学校推薦で早々と10月には大学進学を決めてしまった雅葉は、インナーチャイルドの世界に落ち込みました。いきなり、私ども夫婦に向かって目をむいて不平を語り始めました。

 「子どものときから、成績が良くても自分の親は喜ばない。」
 「なにか問題が起こらないと、自分の話を親身になって聞いてくれない。」
 「友達との関係で問題が起こっても、何とかなるとしか言わない。」
 「すぐに、聖書を読め、神様に祈れ、教会に行けで解決しようとする。」
 「親が喜ぶようにと、大学選びもミッションスクールに絞ってしまった。」
 「推薦をもらうための点取り虫になってしまい、行きたい大学を自分で選ぶことができなかった。自分の進むべき道が分からない。」

と、次から次へとこれまでの心の葛藤を山のようにぶつけて来ました。

先日は、思いきった茶髪(赤髪?)にして出身高校に行って来ました。シスターの武田恵子校長先生や教頭先生をはじめ多くの先生方をびっくりさせてきた様です。先生方に「雅葉ちゃん、大変身ね。」と言われたけど、「大学は規則がないから、自由なのです。就職するときには、また規則に縛られますから。」と言ってきたと嘯いていました。推薦状をいただいた学校長に茶髪に変身した自分を見せて、どのように受け止めてくださるのかという確認作業のようです。

最近、親に向かってあまりに生意気な口を聞くので、妻の涼子が私に対し、「一度は、お父さんがたたかないといけない。父親の権威を見せてほしい。」「母親の私にばかり娘の教育を押し付けないでほしい。」と、苦情を呈していました。19歳の娘と父親の関係はきわめて微妙です。

私は、「主よ、『むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。』(箴言13・24)とあります。愛のむちを打たせてください。」と、祈っていましたが、親馬鹿の故、また、私の心の奥底に自分の青春時代の勝手気ままさを思い起こすことと、45歳でクリスチャンになるまで父親不在の生活を強いたことへの多少の遠慮があって、愛のむちを振るうことができませんでした。妻と娘の狭間にあって苦悩する53歳の壮年の姿です。

ところが夏休みに入った先日、妻の携帯電話を契約することになり、親子三人でドコモに行ってきました。娘の雅葉はアイモードやE-Mailを駆使していますが、われら50歳代の夫婦は老眼で文字盤も良く見えませんし、操作もややこしくて、電話だけ出来れば良いと割り切りました。

娘の雅葉は妻の新しい携帯電話の機能を探ろうとして奮闘中でマイペース。まさにお宅人間の様相でした。私の携帯電話に妻の涼子の新しい携帯電話の番号を入力しようとして、「ママの携帯電話の番号を教えて」と言ったところ、「そんなことも知らないの」とつっけんどんな答えで、後は無言です。自己中心の19歳の娘に対し、私はとても不愉快な気持ちになりました。

私はいきなり娘の雅葉をたたきました。思い切りたたきました。普段、どうしても娘に手を出すことは出来なかった私ですが、いきなり、娘を何度も何度もたたきました。無責任なようですが、娘の雅葉を何故たたいたのかは整理してお話しすることが出来ません。分からなし、思い出せないのです。妻の涼子は私を止めようとしません。後で、「どうしてあそこで止めなかったのか」と尋ねると、「昨今娘の雅葉の言動が目に余っていたので、本当に良かった。」と一言でした。

また、後日、娘の雅葉と私の二人で駅前の本屋まで歩いて出かけたときに、「この間、パパが雅葉をたたいたけど、どうしてだと思う。」と聞いてみました。雅葉の返事はこうでした。「そのことは言わないでね。人はそれぞれ違う考えを持っているから・・・。左のほほを打たれたら右のほほを出せとあるから、雅葉はパパに、おなかも出さなくっちゃね。最近毎日必ず、主の祈りを祈るようにしているの。」と。

 「子どもを懲らすことを差し控えてはならない。
 むちで打っても、彼は死ぬことはない。
 あなたがむちで彼を打つなら、
 彼のいのちをよみから救うことができる。」(箴言23・13、14)

いつもであれば、私はそのようなことでけっして娘をたたけません。受け取る側の雅葉にしても、雅葉の最大のサポーターである妻の涼子も、そのときのことを自然の出来事としてまったく気にしていないのです。

私が雅葉をたたいたその日以降、なぜか急速に雅葉の態度が変わってきました。真の大学生として、一段と成長した気がします。私に今分かることは、あの日、雅葉をたたいたのは、私ではなく神様だということです。当のたたいた犯人の私にしてみれば、今でも本当に心苦しいのですが・・・。


4.終わりに


 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
  神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知ってい
  ます。」(ローマ8・28)

この約束のみ言葉ほど、私たちになぐさめと励ましをくださるものはありません。私の大好きな聖書箇所です。

会社にあっても、家庭にあっても、日々、大きなチャレンジが次から次へとやってきます。昨今の祈りは、ラインホールド・ニーバー神父の次のような祈りをよく用いさせていただいています。

 「神よ。変えられないものを受け止める心の静けさと、
 変えられるものを変える勇気と、
 この両者を見分ける英知を与えてください。」

「この祈りをいつも会社でしている。」と、ノンクリスチャンの周囲の者に話をすると、「この中の『両者を見分ける英知を与えてください』というところが、素晴らしいですね。」という賛意を沢山いただきます。

ところで、私の職場での週日の働きとしてインターナショナルVIPクラブの働きがあります。一週間の大半を会社で過ごす社会人に対し、「週日の教会」を提供するものです。この名称は、旧約聖書のイザヤ書43章4節からとられたものです。


 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。
 わたしはあなたを愛している。
 だからわたしは人をあなたの代わりにし、
 国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」(イザヤ書43章4節)


天と地と海と、その中にあるすべてのものをお創りになった創造主の神様は、私たちを高価で尊い、VIPであるとおっしゃっています。私たちは、今のままで100点満点なのです。そんなにまで私たちを愛してくださっていますので、私たちの罪の贖いのために、一人子イエス・キリストを私たちの代わりに十字架に架けられたのです。これが神の愛です。

私は、減点主義の競争社会に身をどっぷり漬かり、出世街道を求めて富士銀行の恵比寿支店長をしているときに、この福音を心で理解し受け取りました。神のことばである聖書は頭で理解するものではありません。心で悟るものです。ですからIQは関係ありません。学校で教えてもらう世界とは異なります。すべての真理が聖書にあり、すべての模範と具体的な手引きが聖書に書かれていること、そしてそれを頭で理解しようとするのではなく、心で理解しようとすると祝福があると確信したのです。

金勘定にうるさい、経済合理性をもっとも重んじる現代の取税人のような銀行員である私が、「もっと大切な真理が聖書にある。」「イエス・キリストの十字架の死は、私自身の罪の贖いのためになされたものであり、キリスト信仰を持った現在は、イエスの血潮により一切の罪から解き放たれた。」と確信して、真の平安を得ています。皆さんも、「一切の罪から自分自身が解放され、今の自分自身で100点満点だとイエスさまが言ってくださる。」と言うことを確信しておられますか。

「お腹のふくらみが気になりはじめた。」「しわの数が格段に増えた。」「お化粧ののりが悪い。」「相変わらず、他人の欠点が目に付き裁いてしまう。」「家族や周囲の者としっくりいかない。」といった、なんらかの問題を皆さんが抱えておられます。「問題を抱えていない人は、墓場の中にしかいない。」と言われています。イエス様は、そのような問題だらけ、欠点だらけの私たちを、そのまま、まるごと、「あなたはわたしの目には100点満点だよ。」と言って、愛してくださっているのです。

現在苦しみにあっておられる方もいらっしゃいます。「苦しみのない人は、天国にしかいません。」神さまは、愛するものに耐えることの出来る試練を与えられます。ですから、「苦しみは買ってでも経験しろ」といった諺があるのです。しかし、「買った苦しみは益となるが、人からもらった苦しみは恨みになる」ということをご存知ですか?

私たちの周りにたくさん存在する困難や苦しみを、自ら買ったもの、イエス様が与えてくださったもの、と考えられれば、「まさに、苦労は買ってでもしろ。」と言うことになります。イエス様のあなたに与えてくださっている愛を信じ、確信し続けるならば、その問題は自然に解決されるのです。

最後に、冒頭にご紹介した旧約聖書の詩篇121編の1〜8節を皆さんとご一緒にお読みし、「私の助け」である神さまを礼拝させていただきます。