上を向いて歩こう


金森一雄(日清食品ホールディングス鰹勤監査役)

■本稿は、2000年5月22日のVIPクラブ日比谷でのスピーチを平易にまとめたものです。




1.はじめに

本日は、このインターナショナルVIPクラブ日比谷にお招きいただきありがとうございます。VIPクラブ日比谷の集会場となっているこの帝国ホテルは、日本の中で最高に格式と伝統がある大変評判の良いホテルです。

当然お値段も高くて使いにくいと思われるでしょうが、この集会の役員の皆さんが工夫されたように、帝国ホテルの楽しみ方はいろいろです。家族揃って、私の初めての支店長就任祝いをしたのは、17階のレストラン嘉門のランチメニューでした。ランチですからそれほど高くはありません。また、妻の涼子と私は最上階のレインボーラウンジで窓越しにお堀を見ながらケーキとコーヒーをいただくことが大好きです。そして時々、お土産としてショッピングモールのガルガンチョワでパンやケーキそしてチョコレートを買って帰るのが、我が家の密かな贅沢となっているのです。

さて、今日の私を通じた神様からのメッセージのタイトルは「上を向いて歩こう」です。昨今、景気が低迷しているせいか顔を下向き加減にしているビジネスマンが多く見られます。“元気印(パワーマーク)の金さん”で通っている私も、年のせいもあるのでしょうか、いつのまにか下向き加減になっていることがあるようです。洞察力の鋭い妻からは「今日は、元気ないじゃない?何かあったの?」と言われることもしばしばです。今日は、現役ビジネスマンの一人として、私の職場での体験をご紹介させていただき、私が神様から「上を向いて歩こう」と言うメッセージを受け取った様子をお話しさせていただこうと思います。


2.働き甲斐とは

私たちの社会では、より速く、より高く、より強く、より美しく、より正確にといった「勝利の方程式」を重視した運営がなされています。そして、私たちビジネスマンはこの方程式の正解を得ようとして日々努力しているのです。具体的な行動としては、職場での私たちの働きに対して評価をされて、昇給したり、課長や部長に登用されますので、私たちビジネスマンはどうしてもこの人事評価にこだわって一喜一憂してしまいがちです。

この代表的な例は、プロ野球の選手の契約更改交渉において見られます。例年、シーズンオフになりますと、球団側は各選手の成績の査定結果、すなわち人事評価を示して翌年の年俸を決める交渉に入ります。この時期になるとスポーツ紙の一面トップで大騒ぎです。人様の給料のことなのに、なんでそんなに大騒ぎをするのでしょうか。何かと話題の多かった人物と言えば、パリーグとセリーグを往復した落合選手だと思います。テレビなどで「豪華落合御殿」といった報道がなされているのをご存知の方も多いと思います。私は「よくもまあ、あれ程までにお金の亡者になれるものだ。」と冷ややかな目で落合選手のことを見ていました。

しかし、冷やかし半分の余計な部分を取り除いて落合選手の野球に関することだけに絞って見ると、私の見方は少し変わります。プロ野球の契約更改は、選手一人ひとりの労苦への評価とその報酬を決めるという一つのルールの下で行われているものです。ですから、落合選手が年俸にこだわっている姿は、単なるお金の亡者なのではなく自分の仕事に対する誇りと責任を人一倍感じているプロとして、根性ものの素晴らしい姿という見方も出来ると思うのです。

さて、皆さんの給与水準や昇給・昇格はどのような方法で決められていますか?皆さんはこれに納得していますか?人事評価とは「人の事の評価」と書きます。人様にしていただく事ですので、評価する側とされる側にズレが生じるのは当たり前です。落合選手のように、人事を自分の側に引き寄せる力があれば良いのですが、一般的にはそうもいきません。また、ビジネスマンでなくても、専業主婦や教会の牧師でさえ、周囲の人からの評価というものには大いに気になるものです。

人がする評価には、見落とし、誤解、偏りやえこひいきが必ず生じます。不偏なものはあり得ません。例え、評価結果が今は良くても永続的なものとは言えず、今度は評価下落の不安が絶えず付きまといます。ですから、私たちが人様にしていただくこうした評価に重きを置いて、それにこだわり、その結果としての賞賛すなわち給与水準や肩書のランクアップに自分の働き甲斐を置いているとすれば、不幸な結果を招きかねません。私たちが真の平安を得られる、こだわるべき評価とは一体どのようなものなのでしょうか。私たちビジネスマンは、どのような評価を求め、何を働き甲斐にして歩むべきなのでしょうか。



3.銀行員生活のはじまり

今日は、はじめに私の銀行員生活28年間を振り返り、自分の働き甲斐についてどのように考えて来たのかについてあかしさせていただきます。

私は1972年に富士銀行に入社し、赤門の東京大学がある本郷支店で医療関係や出版関係の企業とお付き合いをさせていただくことから銀行マンとしての船出をしました。1975年に本店営業部に転勤して、当時200海里問題で入漁料の支払負担が大変になると騒いでいた水産業界と放送出版業界を担当しました。当時フジテレビ系のレコード会社が、「泳げたい焼きくん」の大ヒットを飛ばしました。これでこの会社は、過去の売れ残りレコードの山を不良在庫として一気に償却することが出来ました。まさに、一曲の大ヒットを狙う「水商売」の凄まじさを目の当たりにして、起死回生、決してあきらめないことの大切さを学びました。

その後、新橋支店で初めて支店長代理という役付者に登用されました。お取引先の電々公社や専売公社が民営化を計画していた時期で、NTTの初代社長となった真藤さんが「落下傘部隊」と言われて電々公社に入社された変革期です。携帯電話花盛りの現在では考えられませんが、まだ多額な経費を必要とした自動車電話を富士銀行の全国の支店長車に設置する計画を立てて、銀行内での予算取りに奔走したのを思い出します。また、二度にわたる組合の専従執行委員としての経験で、立場の違う人の意見を聞きながら何とか難しい問題を一つにまとめ上げる「コンセンサス作りのノウハウ」や人前で話をする度胸を養うことが出来ました。

これまでの入社以来10余年においては、仕事をマスターしていくことが、即、自分の能力開発になるものでした。今日のような集会で異業種にお勤めの方々と色々な会話が自然に出来ることもそのお陰ですし、こうして講壇に立ってお話するど根性も富士銀行での仕事を通じて身に付けさせていただいた気がします。



4.聖書との出会い

1984年の8月、海外業務の拡大を企画する仕事に携わりました。当時は、「ハーバード流経営学よさようなら。」「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と日本全体が浮かれた状態になっていました。私もその渦中の一人として、謙遜さとはほど遠いところにいましたが、そのような状況の中で、私に対する神様からの直接的な働きかけが始まります。

入社したばかりのオーストラリア人のスタッフC君にいきなり「金森さん、神様っていると思いますか。」と質問されました。私はびっくりしました。そのようなことを自分の人生において考えたことがなかったからです。「俺が君のボスだ」と言って憚らない私に対し、彼は続けて「天皇は現人神ですか」と質問して来ました。苦しくなった私は、「俺が君の神さまだよ」とうそぶく有様でした。それでも彼は、私に日本語の聖書をプレゼントしてくれたのです。これが私の聖書との初めての出会いとなりました。

職場の上司に、聖書の神様について語りかけて聖書を渡すということは、新入社員の彼にとって大変な勇気が必要だったと思います。でも、そのお陰で私は聖書の存在を知り、その後、10年近くを経てイエス・キリストと出会うことになるのです。このような自分自身の体験から、現在の私は、何よりも職場を通じてイエス様のことをお伝えする働きに重きを置いています。酒乱に近い上司やゴルフ漬けの仲間に、そして仕事で接するお客様に、彼らの中に入って行って聖書やトラクトを渡しているのです。ビジネスマンにはビジネスマンのように接していくことが必要です。日頃の仕事を通じた人間関係の中で、明るく喜びながら小さなあかしを積み重ねていくことが、私たちビジネスマンクリスチャンに期待されていることだと思います。こうしたことは、牧師がやろうとしてもビジネスの社会にそう簡単には入り込めませんのでとても手の届きにくいところなのです。



5.イエス様との出会い

さて、私はこうして聖書を貰ったものの、聖書に目を通すだけで心では何も受け取る事は出来ず、イエス様との出会いにはもう少し遠回りすることになります。私は、虎ノ門支店の副支店長に就任しました。当時はバブル経済の全盛期で、それまで外車輸入専業のヤナセ任せになっていた日本の輸入自動車市場に、ボルボやベンツといった力のある外国の企業が日本法人を設立して本格的な拡販策を開始し始めました。一方では、日本の企業が地上げ資金や海外のホテル購入資金を借り入れるといった状況で日本国中が浮かれていました。その中で、私も会社人間として大いに実績を挙げようと無我夢中で動き回っていました。

その後、「失われた10年」とか「バブル崩壊による新たな創造」と言われる1990年代に入り、バブルに浮かれて失いかけた人心の回復を図って、各企業がコンプライアンスマニアル作りに手をつけ始めました。私はこの時期に、銀行の事務手続きやシステムを制定する業務に就きました。予期せぬ事故が次から次へと発生しました。バブルで一度緩んだ人間の行状は急には改まりません。私は、イライラが募り、自分の力ではどうしようもないものがあることを認めざるを得なくなりました。それでも、再び自分の力で何とかしようとしてもがき回って疲れ果てるといったことの繰り返しでした。

この時ふと、荒廃した社会の中で何らかの企業倫理が必要なのではないかと思い、先に貰っていた聖書に手が延びて読み始めました。以前読んだ時にはなかなか頭に入って来なかったのですが、この時は砂に水を注ぐような状態になりました。そして、更に聖書の理解を深めようと思って自宅近くの教会に通うようになりました。

1993年4月、新しい都市空間開発プロジェクトとして注目されていた恵比寿ガーデンプレイスの完成を目の前にした時期に恵比寿支店長として赴任しました。人、物、金すべてがごったがえしており、私はその街に新しく流入して来られるお客様をゲットするために夜昼となく力の限り仕事をし続けました。しかしこの時は、これまでのワークホリック一辺倒ではありませんでした。日々の仕事に疲れ果てながらも、日曜日には何かを求めて教会に通っていました。ある日の礼拝中、私は高熱を発して倒れ、そのまま三日三晩ベッドの中の人となりました。疲れの絶頂期にあったようで、身体全身に湿疹が広がり、命を失いかねないヘルペスと診断されました。後にも先にも、元気印の私がこんな風に寝込んだのはこの時だけなのです。

ベッドの中で、聖書を読んでいたときのことです。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2章17節)の聖書箇所に釘付けになりました。そして、「自分はこうして寝込んでいるけれど、実は身体の病人ではなく心の病人なのだ。」と気が付きました。そして、「自己中心的人間の私は、生まれたばかりの赤ん坊と同じ。神様から評価されれば、全く成長していない。この哀れで独りよがりな私は、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じなければ救われないのだ。」とはっきり分かり、大喜びしました。そして、この私自身の罪の贖いをしてくださったイエス様に付き従おうと決心して、受洗したのです。



6.満開を誇る者

こうして私は、45歳で自分をイエス様に明け渡すことを決心しました。遅咲きですが満開を誇るビジネスマンキリスト者としての新たな旅立ちです。私が目にした最大の奇跡は、モーセとともに海の真ん中のかわいた地をわたったイスラエルの民の姿ではありません。自己実現のみに拘泥していた罪人の頭である私が、これまでの一つ一つの出来事すべてを神様が私に用意してくださった貴重な体験として感謝して受け取っていることと、日々主を仰ぎ見て聖書の判断を基として歩む現在の姿に変えられたことなのです。

あるお取引先の社長から、「支店長、処女懐胎を本当に信じているの。」と質問されたこともあります。勿論私の答えは「イエス」。ピンチはチャンスです。こうした質問をして来られるお客様とはかえって親しい関係となり、大いにお取り引きが拡大して成功したものです。

1995年7月、バブル後遺症に悩む企業の手術をして、術後のリハビリテーションの側面支援をするという審査セクションに就きました。この時の辞令は支店長海外研修中のバンコクで受けるという変則的なもので驚きました。しかし、この転勤で大手町の本店に赴任することになり、私の尊敬する佐々木弁護士の事務所が目と鼻の先になりました。ですからこれ以降は、何かとすぐ気軽に佐々木弁護士とお目にかかれるようになり、このVIPクラブの活動などの相談がとてもやり易くなりました。

ある企業の財務面の手術をするにあたって主治医の私が某銀行に協力を求めに行ったときのお話をさせていただきます。折衝が大詰めになった所で、双方の主張がぶつかってしまい険悪なムードになりました。忍耐力と品性に乏しい私はプッツンしました。「協力が得られないのなら、この手術はできない。」と大きな声で言い、中座したい心境になりました。それでも、神様にずっと祈りつつ進めてきた仕事ですから、そんな簡単にあきらめる訳にはいきません。せっぱ詰まった私は、「しばらく祈らせて欲しい。」と断り、その場で声を出さずに心の中で「神さま助けてください。みこころをお示しください。」と祈りました。先方の応接室でのことですから、私が何をしでかすのかと同席していた人たちは慌てたようです。人事を尽くして天命に委ねる。やはりイエス様が救ってくれました。祈り終わると、私の憤りは収まり平安が守られました。先方はキョトンとした顔付きをしていたものの全面的な協力姿勢に変わっていました。

マルコによる福音書11章23節には、次のように書かれています。

まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

皆さんは、こんな風に、山を海に入れたことがありますか。私は、ギブアップしそうな大きな山に何度も出くわしました。こうした時には、イエス様に解決を求めて祈り続けます。祈り続けていく中で、解決策が示され、大きな山をいくつもいくつも動かしてきました。これが私への聖霊の働きなのです。



7.上を向いて歩こう

このようにお話すると格好が良いのですが、次に私の不信仰さを暴露するあかしをします。今年も例年通り、4月に昇格者の発表がありました。そのリストの中には、営業の第一線で働く親友の名前が並んでいましたが、私の名前を発見することは出来ませんでした。自信過剰気味な私は、「どうして?」「何がいけないの?」「21世紀を展望した情報・通信産業などの新しいニーズに対応する仕事に就いていれば良かったのに。」といった気持ちが自然に湧いて来ました。常日頃から私は、企業の財務面の手術を行う現在の職務について、「キリスト者ビジネスマンの私に神様が与えてくださった素晴らしい仕事で心から感謝しています。」と周囲の人に話しています。それなのに、こんな不平・不満の気持ちがよぎってしまうのです。悲しいかな、私は信仰の薄いビジネスマンクリスチャンなのです。

この時も、私の信じる神様は私に励ましを与えてくださいました。

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。『アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。』(中略)そして、彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記5章1〜6節)

この聖書箇所で神様は、「恐れるな。わたしはあなたの盾である。」そして「あなたの受ける報いは非常に大きい。」とアブラムに約束されたように、現在に生きる私たちにも語ってくださっています。ですから何をも恐れず、思い煩うことはないのです。

また、「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」とおっしゃるのです。私には、神様の作られた星の数を数えることは出来ません。それなのに、星の数を数えるようなこと、すなわち「ああでもない、こうでもない。」とか、「ああすれば良かった、こうすれば良かった。」と分かりもしないことを考えていたことに気付かされました。

聖書の神様は、ただ「天を見上げて歩みなさい。」と私におっしゃているのです。「神様の栄光を現すことが出来ますように。」と天に向かって祈りつつ、上を向いて歩けば良いと教えてくださったのです。



8.終わりに 

私たちは大空に舞う凧のようなものです。どんなにたけひごを軽くしなやかにしても、尾をバランス良くつけても、風がなければ凧は舞い上がりません。最高に高く上がっても、凧糸が切れたら終わりです。神様の起こされる風が吹き続けることが大前提で、そして凧糸が神様の手で操られていないと「糸の切れた凧」になってしまうのです。

男は一番高い山に登ろうとし、一番深い海に潜ろうとして、死ぬ気で社会に出て働き続けます。それでも、女は、「貴男は家にいなかったから。」の一言で簡単に男に三行半を突き付けると言います。こんなことでは、いったい男は何のために働いているのでしょうか。一見素晴らしく見えるけれども、大切なものを失ってしまった「糸の切れた凧」のなれの果てを見るような気がしませんか。

でも、ニューミレニアム(新千年紀)の日本には救いの道はあるのです。

私たちビジネスマンは、日々職場でいろいろな困難に出会います。しかしその都度、聖書のことばからその解決策を得て行くことが出来るのです。そして、凧を例にとって言えば、「神様の栄光を現すために大空に舞い上がれる風を起こして、実際にその問題を解決してください。」とイエス様にお祈りするのです。私たちが日々聖書を読み、イエス様にお祈りするというサイクルの中で、「その時」を神様に委ねて、凧糸を引いてくださる聖霊なる神様の導きに従っていくと、本当に平安に満たされます。皆さんも、この平安を味わってみませんか。

今日は人事制度についてお話を進めてきましたが、経営者の立場から見れば、キリスト者が人事制度を「人の事」「人が決める事」と考えて意に介せず、心穏やかにしているとなれば、制度の狙いやその枠組みが崩れて問題になる、と心配される方もおられると思います。しかしその懸念は無用です。凧の例えでは、キリスト者ビジネスマンは、うちわをあおいで風を起こすような無益なことはしません。神様からいただく無償の風と導きをいただくことを祈り求めているのです。そして、神風を受けて天高く舞い上がって神様から賞賛を受けることを第一に考えます。すなわち、どのような苦しみの中にあっても骨惜しみしないで自分の力を発揮し、ずっとチャンスを窺がって大きな飛翔のチャンスを待っているのです。ですから私は、「ビジネスマンクリスチャンに栄光あれ!」と自信を持って祈れるのです。

最後に私の大好きな聖書箇所をご紹介して本日のお話しを終えさせていただきます。

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます(ピリピ人への手紙4章6、7節)


■お便りをお寄せください■

 E-mailcana4988@olive.ocn.ne.jp



mbgy_a05.gif