長野県のこと

-日本の中の"日本"-


今回長野県の田中知事が県議会からの不信任決議の可決を受けて、失職と言う選択をした。実は私はそのダム問題の話でいきなり有名になってしまった下諏訪で、しかも砥川のほとりで育った者である(注)。今回の議会の態度と主張を見ていて、いやはや長野県人のイヤラシさ丸出しだなと、苦笑を禁じ得ない。そもそも田中知事が就任挨拶に行った先の長野県の役人は彼の差し出した名刺を「これはなかったことにします」と言って折り曲げてしまった。これもいかにも長野県人のやりそうなことである。
注:思い起こしてみると砥川が決壊した(ではなく溢れた)ことは私がいた14年間のうち1,2回でしたね。別に床下浸水したわけでもなく、何ら危険性はなかったですが。
私は東京で生まれ、親の都合で長野県で育つことになったが、実は絶えず疎外感というか、ここは自分の居場所ではない、という思いに苛まれていた。いつか必ず東京に戻るぞ、と決意した5歳の幼き日のことを今でも明確に記憶している。よって現在でもいわゆる郷土愛とか、郷土の誇りなどは微塵もない。むしろ長野県の醜悪さが鼻についてしまう。

ちなみに長野県はかつて教育県でならしたものだが、その教育水準の凋落は著しい。田中知事と私は同世代であるが、私たちの時代、県内NO.1だった長野高校(田中知事の出身校だったかな?注:私はもっと格下の高校ですが)からは東大に30人も入ったものだが、現在は一桁であろう。後は押して知るべしである。理由は簡単、教師たちがプライドの塊で、机上の空論的理屈をこねるだけで、受験対策を中心にした実践論に走ることは教育の本筋を外れるなどのスタンスを崩さないからである。

【訂正】田中氏は深志高校出身でした。深志も長野県有数の進学校でした。

教育ばかりではなく、長野県人の特徴は、その空プライドの高さと理屈癖、さらに嫉妬深さとねちっこさ、そして現実原則に沿った判断と言うよりは感情による判断が優先されることである。要するに理屈をこねる割に、感情によって嫌いなヤツは嫌いだ、とするのである。精神病理的には自己が引き裂かれており、その主張も自己矛盾に満ちているのだが、本人は一向に気づかない。かつて私なども"理屈屋"として、周りの人々から疎まれたことが多かったが、私は「自分の理屈は通っている」と感じたもので、むしろ周りの人々のワケの分からない理屈にはほとほと辟易したものだ。

今回の田中知事の件も全く同じである。理屈からすると田中知事の方がはるかに通っており、脱ダムも世界的潮流である。しかも長野県民は70%近くが田中知事を支持している。しかるに議会サイドは「長野県民のために」として田中知事を排除した。その理由も理屈はこねているが、単なる感情論であることは明白である。要するに田中氏は長野県議会の体質に合わない気に食わない野郎なのである。単なる感情論であるから、議会側が言っていることはすでに論理的にも破綻している。TVで彼らが主張するほどにその愚かさを暴露してしまっている。

実は私は長野県は地理的にも日本のヘソの位置にあるばかりではなく、まさに日本人の典型的病理を有していると感じている。上に述べた特徴は実は日本人の特徴をそのまま拡大した形で表している。今回の長野県の状況を見るほどに、日本の改革の困難さが分かるのである。現総理も苦しんでいるところであるが、彼らは実は日本の体制や慣行を相手にしているのではなく、日本人の精神病理そのものを相手にしているのである。閉鎖社会の中の閉鎖社会が実は長野県である。そしてこれはきわめて濃縮された形でニッポンキリスト教会の病理としても表れている。

今回の顛末を見ていて、日本型プロトコル(儀礼)は無視するわ、あえてタブーに触れて暴きたてるわで、私なども下手をすると名刺を折り曲げられ、ニッポンキリスト教会の"田中知事"になりそうな気配がなきにしもあらず、かな?・・・・いやはや。(02.07.15)