ヨ ブ

−苦難の意味:自己から神へ−




1.人物像



ウツの地に住む、無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きており、7人の息子と3人の娘をもち、羊7千匹、らくだ3千頭、牛5百くびき、雌ロバ5百頭の財産を持ち、使用人も数多く使っておりました(B.C.1800頃)。しかしながら彼はサタンによって試みられ、その財産から始まって、息子・娘たちを失い、ついには自分自身も重い皮膚病に罹って、ありとあらゆる人生の辛酸を舐めます。しかし彼は有名な言葉、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」を告白しつつ、神を非難することはなく、罪を犯しませんでした。

私たちはこのような正しい人物の味わった悲惨な経験を評価するときに、なぜ神はこのようなことをこの人に許されるのだろうか、と考えます。そして時としてその悲惨をすべて神に帰し、神がいながらこのような不条理を許されるならば、そのような神はのろわれよ、と叫びたくなります。しばしばこのような観点から書かれた小説や映画などが存在します(注)。人間の苦難のルーツとその原因とはいったい何なのでしょうか。神は単に気まぐれでヨブにこのような苦難を送られたのでしょうか。ヨブ記のテーマをめぐっては多くの文学者やユングなどの精神分析学者などがそれぞれの観点から追求しております。神はヨブの人生を通じて何を語ろうとしておられるのでしょうか。
(注)例えば、ジーン・ハックマン主演の「ポセイドン・アドヴェンチャー」や最近のデカプリオ主演の「タイタニック」などはみなそのような価値観が基底に横たわっています。



2.主なエピソードとその霊的意義



2.1.サタンの試み

物 語

ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンもそこにおりました。サタンは「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩き回っていました」と答えます。主はサタンにヨブを指摘しますと、サタンは、正しくいるのは財産や家族や彼の健康を主が祝福されるからであるとし、ヨブを試みることを神に求めます。すると主は、最初にヨブの財産と家族を、そしてヨブの健康をサタンが損なうことを許しますが、ヨブの命には手を触れてはならないと命じます。こうしてサタンはヨブからその財産と家族、ついには彼の健康までも奪い取ります。しかしヨブはそれでも神を呪ったりしませんでした。


霊的意義

試みる者はあくまでもサタンです(ヤコブ1:12−18)。サタンは獲物を求めて地を歩き回っているのです(1ペテロ5:8)。しかしサタンは神の許しがなければ何もすることができないこと、そして神の裁量の中にあってのみそのしわざをなすことができるのです。私たちは、ヨブの受けたこれらの災いを見ると、何か神の主権の下に服することが怖く感じられる部分もありますが、新約聖書では「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道も備えていて下さいます」(1コリント10:13)と約束されています。

実はここでヨブがサタンに試みられるに至る契機となる事実があります。それはヨブの言葉、「恐れていたことが起こった、危惧していたことが襲いかかった」(ヨブ記3:25)に証明されています。すなわちヨブは自分が何かを失うことをすでに恐れていたのです。そしてその通りになったのです。信仰は恐れと対立します。あるいは恐れは"負の信仰"と言えます。恐れのあるところは、実は私たちの信仰の盾による守りに穴が開いている部分なのです。サタンはその穴を狙い撃ちしてくるのです。そしてしばしばその恐れのとおりになります。よく癌になった方は、こうなるんではないかと思っていた、と告白するケースが多いのです。

神はまたそのことを当然に御存知です。実は神がこのような事態を許される理由の一つは、そのこと、すなわち信仰の穴の存在を指摘するためであるのです。ヨブはこの試みにあっても決して神を呪うまいとして、また自己の正当性を主張して堅い態度を取ります。人間の目から見ると何かよいかのように見えますが、実はこの姿勢は神の目から見て決して好ましくはありません。神が求めておられることは、ヨブが自分の義あるいは力に頼っていること、また彼の信仰に穴が開いていることを、ヨブが知り、自己から神へと転帰することなのです。



2.2.友人たちの"アドバイス"とヨブの自己弁護

物 語

ヨブの3人の友人がヨブを見舞いに来て、ヨブに対して様々な"助言"を与えます。いわく「神は義なる者に災いを送ることはなさらないから、ヨブには隠れた罪があるに違いない」、「この世や人生はかくかくしかじかであるから、あなたの災いも同様である」、「ヨブよ、自分の罪と問題を認めて、神に立ち返るべきだ」・・・。それに対してヨブは「いや、自分には問題はない。自分はあくまでも正しい。自分は神に従っている。このような災いに会わせる神の方が不当である」・・・。このような議論が延々と続くのです。

そのうちに友人たちもヨブの頑なな応答に対して愛想をつかし、ヨブも友人たちからのアドバイスに憤慨しまた失望して、共に疲れていきます。すると最後にエリフという若者が発言します、「自分は若いから発言を遠慮していたが、必ずしも年長者が知恵を持つわけではない。知恵は神が授けるものである。同様に命も神が授けるものであり、人の正しさも神によるのである。ヨブは自分は正しいとあくまでも言い張るが、神の義を見るべきである。神はいかなる苦難の下でも助けを与えて下さる。人は神の御旨を測ることはできないから、ただ神を恐れるべきである、人の知恵は顧みるに値しない」と訴えます。

霊的意義

人はしばしば苦難に陥っている人々を見て、何とか助けてあげようと意図します。そしてそれぞれの思想や観察や助言を授けるのですが、しばしばそれらのありがたいお言葉が何と苦難にある人をさらに傷つけ、さらにその苦難を増し加えることが多いことでしょう。ある人はこう言い、別の人はああ語り、また別の人はこう告げます。それぞれの言葉がいかに人生智に満ちているかのように見えたとしても、苦難の中にいる本人を助けることはまずありません。むしろさらに混乱を増し加えるのみです。

人の知恵や言葉はしばしばこのようなものです。ヨブを見舞いに来たはずの3人の友人は結局、ヨブを慰めるどころか、ヨブの苦難を増幅し、ヨブをさらに頑なにするのみでした。そしてついに沈黙が訪れたところで、エリフという若者が登場するのですが、彼は知恵とか命、さらに苦難における救いは神から来るのであることを大胆に宣言します。以前の3人の友人がヨブの苦難を指摘し、その原因を分析し、その人間的解決法を指摘してたのに対して、エリフはヨブの目をその苦難とか原因の詮索とかではなくて、神に目を向けよとヨブを促すのです。神の主権とその大能に目を向けよとヨブを促すのです。

ここで一つの転機が訪れます。私たちも様々な問題に直面し巻き込まれるとき、その原因や解決を模索しますが、しばしばそれは空回りに終始します。実は聖書が提示する救いは、個々の問題の分析や解決法の模索ではなく、それらものから目を離して、神を仰ぐことなのです。ヨブの苦難の始まりは彼の信仰の穴に因りました。したがってその苦難からの脱出も、神に対する信仰によるのです。自分の力で模索することを止め、神を仰ぐことです。これが苦難からの脱出、問題解決の第一歩となります。ここでヨブにとっての決定的な転機が訪れます(ヨブ記37章まで)。


2.3.主なる神の言葉

物 語

エリフの言葉の後、それまで沈黙を保たれた神は突如、怒涛のごとくに言葉を発せられます。いわく「ヨブよ、お前は創造の神秘を知っているか、お前はそれらの物を造れるか、創造がいかにすばらしく、知恵に満ちているかを見よ、宇宙の神秘を知っているか・・・」。そしてついに、「ヨブよ、全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責め立てる者よ、答えるが良い」。ここまで言われてヨブはついに兜を脱ぎます、「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはもう語りません」。

しかし神は駄目押しのようにヨブに言葉を語ります、「お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするために、わたしを有罪とさえするのか・・・」。こうしてヨブは神に対して完全に降伏するに至るのです、「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げ得ないことを悟りました。『これは何者か。知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは。』そのとおりです。わたしに理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。・・・あなたのことを耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます」と。

そして神の命に従って自分を傷つけることにしかならなかった友人達のために祈りますと、神はヨブの祝福を以前の2倍に増し加えて回復してくださるのでした。こうしてヨブは素晴らしい繁栄と家族に恵まれて、140年間生き、長寿をまっとうして老いて死にました。


霊的意義

エリフの言葉を契機として、神は自ら口を開かれますが、ここでのポイントはエリフがヨブの苦難自体の理由を詮索したり、分析するのではなく、ヨブを自分から目を離して神へと誘導することにありました。そこに神ご自身が怒涛のごとくに語りだされ、ご自身の権威、大能、摂理、創造の神秘を指摘することにより、ヨブをさらにご自身へと誘導します。神の栄光を見よ、自己の小さな正しさとか主張に拘泥するな、と神は言われるかのようです。ヨブが自らの支えとしていたことは、自らの正しさ・正当性など、要するに自己の何かでした。神はそのことを指摘されるのです:お前は創造物に過ぎない、自己の何かではなく、わたしに目を留めよ、わたしに立ち返れ、と。

そしてついにヨブは自らの何かにしがみつくことができなくなって、ついに神の神たる方の主権と摂理を告白します。こうして彼はついに自己を退け、悔い改めによって神の道を選び、神にしたがって友人のために祈りますと、神は以前の2倍の祝福をヨブに賜るのです。自分を傷つけた相手に対して祈ること、これはしばしば神の祝福をもたらします。ここで注意して欲しいのは、神はヨブに問題の解決法を提示されたのではありませんでした。神ご自身を提示されたのです。鍵は自己を否み、神に立ち返ること、これこそ信仰のすべてであり、ヨブが苦難に陥った原因を払拭することができるのです。信仰とは神の神たる方を認め、信じ、従うことです。それは神ご自身に栄光を帰することに他ならないのです。



3.神の全計画における意義



エステル記ルツ記には神の御名が表面上出てきませんでしたが、そこに描かれている事件を通して、摂理によって働かれる神の峻厳を描いていました。それに対してヨブ記は、最初のうちは人間ばかりが登場するのですが、最後に沈黙を破って神が自らその峻厳さの中で言葉を発せられます。ここには何か神の荘厳な輝き、その権威と主権、そしてヨブに対する慈愛を感じるクライマックスです。人間の苦難と苦悩の原因がどこにあるのか、神はヨブに対する取り扱いを通して、その理由を分析したりすることなく、ご自身の存在の何たるかをもって、その荘厳さの中でヨブに悔い改め信仰を求めるのです。この意味で、ある種、旧約聖書と新約聖書をつなぐ役割を有し、あらゆる人間の実存的問題の解決法は、分析的方法ではなく、まさに神ご自身にあることを、神が自ら証しされるのです。きわめて現代的なあらゆる課題に対する万能の回答、すなわち神ご自身神ご自身の言葉によって証しするきわめて特別な書物です。


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